第19回 歌舞伎座
- 【写真1】初代歌舞伎座。看板から明治29年5月の撮影と判明。六切大手彩色横浜写真。
東京府の第三勧工場の敷地を買い取り、福地桜痴と千葉勝五郎により木挽町に建てられた歌舞伎座の写真【写真1】である。3万5千円の費用をつぎ込み、明治22年11月21日に開場した。高原弘造設計による壁面に浮彫を施した洋風ルネッサンス様式の劇場だった。欧化政策に合わせ日本の演劇も改良しようとする心意気が窺われる。江戸時代には歌舞伎狂言を単に芝居と呼んでいたが、歌舞伎座の誕生により、歌舞伎という名称が一般的になった。
- 【写真2】これも初代歌舞伎座で、明治40年以降に発行された絵葉書。入口に雨除けの屋根が増設された。
さてこの【写真1】は何時撮られたかということになると、開場以降であることは確かだがなかなか見当が付かない。こうした劇場の場合は出し物の看板が参考になる。この写真は六切大の写真なので、演目の看板に書かれた文字を読むことができた。右の看板から「壹番目 富貴艸(草)平家物語 全五幕」「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりえどざくら)」「二番目 箱書附魚屋茶碗」となっている。そこで歌舞伎座でこの三つの演目が何時演じられたかを調べると、明治29年5月であった。助六由縁江戸桜では、9代目市川團十郎が当たり役の「花川戸助六」を演じた。連日満員で大いに盛り上がり、日延べをして33日の興行になったそうである。9代目市川團十郎は明治36年に没する。「劇聖」と称賛された團十郎が最後に助六を演じた興行であった。
- 【写真3】純和風の宮殿造りに改築された歌舞伎座。中央入口の屋根も唐破風になった。明治44年3月以降。
次に歌舞伎座の変遷を辿ってみよう。【写真2】は明治40年以降に発行された歌舞伎座の絵葉書である。同じ建物の写真であるが、入口に雨除けの屋根が増設されている。
- 【写真4】大正14年1月6日に竣工の岡田信一郎設計の歌舞伎座。昭和初年の撮影。
歌舞伎座は西洋式の外観ながら、内部は和風という中途半端な劇場だった。そこで明治44年3月、日比谷に本格的な西洋式の帝国劇場が竣工したのを機に、外観も純和風の宮殿造りに改築された。【写真3】が改築された歌舞伎座である。改築された歌舞伎座は、大正10年10月30日に焼失する。そのため岡田信一郎の設計により大正14年1月6日、新しい歌舞伎座が誕生する。【写真4】である。近代的手法を加味して、大屋根が三つ連なる桃山風となった。しかし昭和20年の東京大空襲で被害を受けたため、吉田四十八の設計により修復が行われ、昭和26年に完成したのが【写真5】の歌舞伎座である。中央の大屋根は無くなっている。この歌舞伎座も老朽化により、平成22年4月の公演を最後に建て替えられることが、経営する松竹鰍ゥら平成20年10月20日に発表された。
- 【写真5】昭和30年頃の夜の歌舞伎座。昭和26年、吉田四十八の設計で修復完成した歌舞伎座である。
【写真6】は取り壊しになる前、平成22年1月10日に撮影した歌舞伎座。揚げられている櫓の紋は、明治22年に福地桜痴が歌舞伎座を建てた際、座紋に決めた「鳳凰丸」である。桜痴自宅の釘隠(くぎかくし)に使われていた紋で、原形は法隆寺の「鳳凰円文螺鈿唐櫃」に使用されていた紋とのことである。
- 【写真6】平成22年4月の興行後取り壊しになる歌舞伎座。正面の唐破風の装飾、提灯、屋根瓦など到るところに鳳凰丸が使われている。平成22年1月10日撮影。
(写真・文 石黒敬章)
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