第18回 蓬莱社
- 【写真1】木挽町7丁目の蓬莱社。手前が汐留川、左奥が三十間堀川。橋は蓬莱橋。右手に新橋ステーションがある。
木挽町7丁目(現銀座8丁目)に明治5年新築の蓬莱社【写真1】である。蓬莱社は後藤象二郎【写真2】が、野に下っていた時代(明治3年〜9年)、長崎の高島炭鉱を政府から払い下げを受け興した会社である。ブリジェンスの設計で瀟洒な建物だった。手前の橋は汐留橋と言ったが、明治7年5月に蓬莱社の出金で石橋に改架され、蓬莱橋と名付けられた。
- 【写真2】後藤象二郎肖像。坂本龍馬の献策を受け、藩主山内容堂を説得し、徳川慶喜に大政奉還の建議を行ったことは有名。
【写真1】は石橋になった直後の撮影であろう。何故なら、『ファー・イースト』紙の1874(明治7)年7月31日号に、同じ時の撮ったと思われる酷似した写真が掲載されているからである。「東京の蓬莱社、蓬莱橋」のタイトルで、「1868年にイギリス公使ハリー・パークス卿を襲撃から救った後藤氏が社長。香港上海銀行から招いたジョン・グリゴー氏がマネージャーで、来月から銀行部門を開業」という解説が付けられている。
- 【写真3】第十五国立銀行(別称華族銀行)。外部のデザインが変わった。明治中期の名刺判写真。
後藤象二郎がハリー・パークスを救ったという事件について少し捕捉する。慶応4年2月30日(1868年3月23日)、ハリー・パークスは京都で明治天皇に謁見するため、宿舎の知恩院を出て御所に向かった。四条畷(しじょうなわて)まで来た時、十津川の浪人朱雀操(すじゃくみさお)と三枝蓊(さえぐさしげる)の襲撃を受けた。数分の激闘で朱雀は先導役だった後藤象二郎と中井弘蔵により首を落とされ、三枝はブラッドショー中尉に顎を撃たれ取り押さえられた。この功績で後藤と中井はビクトリア状女王から宝刀を贈られている。
- 【写真4】平成22年1月現在。銀座8丁目の銀座三井ビルディングとなっている。右にある蓬莱橋交差点の名称のみが往時を物語る。
蓬莱社は放漫経営で業績悪化のため明治9年に閉社し、三菱の岩崎弥太郎に売却している。そしてこの建物は第十五銀行に引き継がれる。明治10年5月21日に岩倉具視の提唱によって設立された銀行である。【写真3】が第十五国立銀行である。蓬莱社の建物を改装したので、【写真1】とは印象が異なった。株主は華族に限られ、金録公債のなど膨大な資金を出資された。初代頭取は元長州藩主毛利元徳が就任し、資金も信用もあった銀行で、別名を華族銀行と称した。明治30年5月に国立銀行として営業期間満了に伴い、普通銀行である株式会社十五銀行となる。ところが昭和2年に起きた金融恐慌で取り付け騒ぎが起き事実上倒産する。その後再び開業するが、昭和19年に帝国銀行に吸収合併された。帝国銀行は昭和29年三井銀行と改称した。
昭和3年に昭和通りが造られ、三十間堀川は昭和27年までに埋め立てが完了、汐留川もオリンピックのあった昭和39年までに完全に埋め立てられた。それでこの辺りの景観は様変わりした。新旧の地図を見比べて想像するに、蓬莱社のあった場所は昭和通りと銀座御門通りの角地に建つ、銀座三井ビルディング(三井ガーデンホテル)の南端辺りだったと思われる。【写真4】は、第十五銀行があったと思しき場所を想定して写したものである。背後が首都高速道路であり、かつて汐留川だったことは間違いない。
(写真・文 石黒敬章)
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