第13回 カトリック築地教会

 運河に囲まれた明石町一帯は、明暦の大火後の埋立地であるが、明治2(1869)に開市され、外国人居留地となり、教会を中心に学校や異人館が立ち並ぶことになる。


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【写真1】中央天主堂の右手が鐘撞き堂と神学校。左はオズーフ大司教の住んだ司教館。明治10年代。

 【写真1】のゴシック風の教会は明石町居留地35・36番にあったカトリック築地教会である。平成4年に明石町資料室の清水正雄氏を訪ねた際、『つきじ・百周年記念号』(築地教会発行)を閲覧して判明したのである。

 パリ外国宣教会のマラン神父とミドン神父が本湊町の民家を借り受けて教会としたのが始まりとのこと。明治7(1874)年に居留地34・35番を競売で入手して移転する。そして明治9年に日本北教区長に任命されたピエール・オズーフ大司教が、翌明治10年にダリュ伯爵より2万フランの寄付を得て、それを基金として聖堂建設に着手。11年8月15日、聖母昇天の祭日を期して天主堂の献堂式が執り行なわれたのだった。ミドン神父の報告には「長さ33メートル、幅14メートル、中央部円天井の高さ10・5メートルの18世紀ゴシック建築。煉瓦造りで防水用塗装が塗られ、直径2・25メートルの鉄製バラ形装窓が天主堂前面を飾っていた」との記述がある。

 この教会には大小2つの鐘があったそうだ。小はフランスで明治9年に鋳造され「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と命名されたもの。大は法学者のボアソナードが寄贈した「アドレード・ジョセフィーヌ」という名の鐘であった。【写真1】の右手に塔が写っているが、これが鐘楼であった。清水正雄氏は「ここにルイーズやジョセフィーヌが下がっていたと思うとロマンを感じますね」と言われた。ちなみにルイーズは現聖堂2階に保存され、ジョセフィーヌは大正10年カトリック関口教会に移り、ルルドの鐘として保存されているそうである。

 明治27年発行の『スプリット・オブ・ミッション』という雑誌の居留地イラストには、明石町中央部にこの鐘楼は確かに描かれている。しかし明石町資料室にあった明治末年の写真では鐘楼は既にない。鐘楼が何時取り壊されたのかはよく分らない。


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【【写真2】平成20年11月13日現在のカソリック築地教会。ギリシャ神殿風になった。

 【写真1】の聖堂や司祭館は大正12年の震災で焼失する。現在の聖堂【写真2】は昭和2年4月に再建されたものである。ギリシャ神殿風だが石造りではなく木造でモルタル張りである。現在は中央区明石町5―26で場所は変っていない。


(写真・文 石黒敬章)

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