第7回 呉服橋と鍛冶橋

 今回は似たような2枚のアーチ橋の古写真を紹介する。江戸城の外堀、呉服橋御門と鍛冶橋御門があった場所に架かっていた呉服橋と鍛冶橋である。ともに明治6年に門が撤廃され、その石塁を用いて石橋が造られる。

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【写真1】明治5年頃、内田九一撮影の呉服橋御門。

 【写真1】は明治5年頃、まだ呉服橋御門が健在なときの写真である。


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【写真2】明治中期の呉服橋。中嶋待乳撮影。

 【写真2】は石橋になった後の呉服橋である。現在呉服橋交差点のある場所で、八重洲龍名館ビルの前(交差点東南)から撮影した写真である。呉服橋御門は寛永6(1629)年に奥羽地方の大名により門や石垣が造られた。明暦の大火で焼失し、万治3(1660)年に再建されている。明治6年に桝形や高麗門が取壊されたが、木橋はしばらく残り、文化元(1804)年、安政3(1856)年に修理、慶応3(1867)年に改架されている。写真の石橋は明治13年に改架された。この写真は中嶋待乳という写真師の撮影らしく、明治20年前後と思われる。大正3年に鉄橋になるが、昭和26年に外堀側の埋め立てにより橋は姿を消した。


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【写真3】現在の呉服橋交差点。【写真2】と同じ角度で撮影。

 【写真3】は現在の呉服橋交差点。呉服橋の町名も昭和29年になくなり、いまでは呉服橋交差点と首都高速道路の呉服橋ランプの名称のみが残る。


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【写真4】明治10年頃の鍛冶橋。撮影者不詳。

 【写真4】は鍛冶橋である。呉服橋とおなじで、奥羽諸大名により寛永6(1629)年に建造。以後、門は何度も焼失するがその度に修復されている。橋は文化5(1808)年、安政3(1856)年に修理されている。写真左の石垣の上に桝形門があった。桝形門は外堀に突き出して造られていたので、左奥まで堀の水が及んでいる。鍛冶橋門の位置は、現鍛冶橋通りの鍛冶橋交差点南端辺りにあったようなので※1、この写真は現冨士屋ホテルの前辺りから撮ったことになる。『大日本全国名所一覧』(26頁)※2に同じ写真が掲載されている。バルボラーニという駐日イタリア公使が明治14年の帰国の際に持ち帰った写真アルバムの一葉であることから、明治14年以前の撮影であることは間違いがない。枡形門が取壊された明治6年から14年までの撮影となる。


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【写真5】鍛冶橋御門のあった場所の現在。右手が鍛冶橋交差点。

 【写真5】は現在。富士屋ホテル前から撮影。右手が鍛冶橋交差点。鍛冶橋御門のあった左手は、東京都の未利用地で臨時にバスの駐車場になっていた。鍛冶橋の名は交差点の名称として残っている。

 『鹿鳴館秘蔵写真帖』(45頁・59頁)※3に呉服橋と鍛冶橋のまだ枡形門が遺されている時(明治5年頃)、ほぼ同位置から撮影の写真が掲載されている。比較してみるのも一興である。


※1参謀本部陸軍部測量局明治20年発行の「5千分の1東京図」と現在の地図を重ね合わせて見た。
※2『大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖』マリサ・ディ・ルッソ 石黒敬章監修 2001年 平凡社発行。
※3『鹿鳴館秘蔵写真帖』社団法人霞会館編 1997年 平凡社発行


(写真・文 石黒敬章)

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