第2回 銀座4丁目

 今月は現銀座4丁目交差点から数寄屋橋方面を望んだ写真を掲載する。銀座4丁目の明治期の写真は、そのほとんどが新橋を背にして京橋方面を望んだものである。本写真は写りが悪くとも、写した方向が珍しいことでご容赦願いたい。

 銀座一帯は明治5年の大火で焼け、東京府知事の由利公正が、トーマス・ウォートルスに設計させて火災に強い煉瓦街を造ったことは有名である。明治6年に起工し、表通りは10年頃に完成した。ガス灯が設置され、日本で初めて歩道を備えたハイカラな通りが誕生した。まずは新し物を商売にするバタ臭い店が店舗を構えた。化粧品・医薬品・カバン・バージニアの煙草・洋傘などの類であった。しかし初めての西洋煉瓦造りの建物は評判が今ひとつだった。湿気が多い、雨漏りがするなどといって嫌がられ、空き家も目立ったそうである。一時は覗きめがね・剣戟・犬の踊りなども興行されたという。

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【写真1】明治8〜16年の銀座4丁目交差点。

 そうしたところに進出してきたのが新聞社であった。まあ六本木ヒルズにネット企業がいち早く入居したようなものだろうか。『東京曙新聞』『東京日日新聞』『日新真事誌』『朝野新聞』『読売新聞』『仮名読新聞』などが次々と銀座に集り、銀座通りは情報センター街となったのである。【写真1】はその時代の一葉である。右の建物(現和光の場所)は『朝野新聞』の看板が掛かる。銀座最初の新聞社である『日新真事誌』があったところ。『日新真事誌』はジョン・ブラック創刊で、明治6年7月築地から移転してきた。政府批判で名を上げた新聞だったが、明治8年12月に廃刊になる。明治9年11月、次に入居したのが成島柳北の『朝野新聞』だった。竹川町から移転してきた。よってこの写真は明治8年以降となる。銀座通りに鉄道馬車の軌道が敷設されていないので、鉄道馬車開通の明治15年6月以前である。左の建物(現三愛)は木戸孝允が明治8年1月に神田小川町で創刊した『東京曙新聞』が明治9年12月に入居したところ(明治15年3月まで発行)。


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【写真2】明治40年頃の銀座4丁目。

 【写真2】は明治40年頃のやはり現晴海通りである。【写真1】より少し下がって銀座4丁目交差点を写したもの。朝野新聞社の場所は服部時計店になっている。交差点の右手前は明治38年開店の山崎高等洋服店になっている。東京電車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道が合併して東京鉄道株式会社になった頃(明治39年9月)だろうか。路面電車が多い。


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【写真3】昭和10年頃の銀座4丁目。

 時代は昭和10年頃にとび戦前の晴海通り【写真3】である。【写真2】とほぼ場所から写している。手前右の山崎高等洋服店の場所には、昭和5年4月10日三越銀座支店が開店。その先の服部時計店のビルは昭和7年6月1日の時の記念日に竣工。交差点の先に朝日新聞社と日本劇場が望める。


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【写真4】現在の銀座4丁目交差点。服部時計店は昭和22年に和光となった。

 【写真4】は現在。最近は銀座通りばかりでなく、晴海通りにもブランドショップが相次いで開店し注目を浴びている。


(写真・文 石黒敬章)

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