第7回 寛永寺本坊の表門

 いまでこそ寛永寺はどこにあるのか分からないほど普通のお寺になってしまったが、江戸時代は上野の山といえば、その殆どが寛永寺の境内であった。山内と呼ばれ、上野の山は聖なるお山だったのである。

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【写真1】帝国博物館入口の寛永寺本坊の門。明治中期。

 徳川幕府が倒れ江戸が無血開城されたとき、憤懣やるかたない彰義隊の面々がこの聖なるお山に立て籠もって上野戦争が勃発したのだった。近距離からは大砲、本郷台からは最新式のアームストロング砲がドカンドカンと上野の山に撃ち込まれ、寛永寺の根本中堂ほか多くの諸堂は焼失してしまった。残ったのは東照宮・霊廟・清水堂と本坊の表門くらいのものだった。それゆえ栄華を誇った頃の寛永寺の写真は見ない。上野戦争で焼け野原となった山内に本坊の表門のみがぽつんと立っている写真が残されているに過ぎない。


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【写真2】大正12年の関東大震災で本館建物が取壊された帝室博物館。昭和初年。

 明治政府は寛永寺の跡地を公園に指定し、ここを殖産興業・文化振興策の中心地とした。殖産興業を目指す博覧会は上野公園で開催されるのが常となった。寛永寺本坊の跡地には明治14年に博物館が竣工し、第二回内国勧業博覧会で美術館として使用された。明治15年3月20日に博物館は開館している。明治22年帝国博物館、明治33年東京帝室博物館と改称されている。工部大学教授として明治10年に招聘したジョサイア・コンドルの設計である。


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【写真3】現在の東京国立博物館。

 【写真1】は明治20年頃の帝国博物館の入口である。本坊の門の中にサラセン風の建物が垣間見える。昭和初年撮影の【写真2】では門に「帝室博物館」と看板は出ているが、博物館の建物が見えない。博物館の建物は関東大震災で破壊され取壊されてしまったのである。幸い陳列品の被害は軽微で、この時は左にある表慶館で展示されていた。【写真3】は現在の東京国立博物館である。昭和12年11月竣工の帝冠洋式の建物で、設計図案は公募によるという。昭和22年東京国立博物館と改称されている。旧本坊の門は見えない。現在は国立博物館の東側にある両大師(寛永寺を開いた天海僧正と比叡山中興の良源僧正を併祀する開山堂)東側の道路際に移築されている【写真4】。


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【写真4】両大師前に移築された寛永寺本坊の門。

 日本に博物館が創られたのは、薩摩藩英国留学生として慶応元年にイギリスに渡り、大英博物館やケンジントン博物館に足しげく通った町田久成の努力による。町田は帰国後、日本古来の文化財の散逸を防ぎ、保護収集するための「集古館」を建設すべきと太政官政府に建議した。それが実ったのが帝国博物館であった。附属として上野動物園も同じ日(明治15年3月20日)に開園した。町田は自ら帝国博物館初代館長として任にあたった。しかし日本博物館の祖であり日本古美術研究の先駆者でもある町田は、明治18年突然官職を辞して僧侶になってしまう。理由はよく分からないそうだ。



(写真・文 石黒敬章)

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