第4回 六区興行街

 明治6年、浅草寺境内は公園に指定され、一区から七区に分けられた。その中で明治大正期を通じて最も有名だったのは、六区興行街(歓楽街)である。六区の北に接した千束町に明治23年に竣工した凌雲閣(浅草十二階)があり(現在の浅草パラスの場所)、そこから南に伸びる道の両側が六区である(現在は六区ブロードウェイと呼ばれる)。六区はさらに北側の一号地から南側の4号地まで、4区画に分けられていた。

 時代により見世物は変わるが、玉乗りで有名な大盛館があったのは一号地、娘都踊りの日本館があったのは二号地、常盤座があったのは三号地、人工富士や日本パノラマ館が造られたのは四号地である。

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【写真1】大正8年夏の浅草六区興行街。中央の劇場は千代田館でその向こう側に電気館がある。

 芝居、落語、浪花節、女剣舞、オペラ、レビューなどあらゆるものが上演され、流行を創り出していった。電気機械を応用した見世物小屋であった三号地の電気館は、明治36年10月日本初の常設の活動写真(映画)館として旗揚げした。大正期になると、多くの劇場が活動写真館に転向していくことになる。六区には二〇館もの活動写真館が出来、原色で塗りつぶした絵看板を掲げ、束髪の客引き女が金切り声をあげて客を引き込んだという。にわか作りの活弁(活動写真弁士)が登場し、台本もなしで解説をした。男優は「ジャック」女優は「メリー」の名で押し通し、「花のパリーかロンドンか、月が鳴いたか一声は」「何をくよくよ川畑柳、水の流れを見て暮す泰西の悲劇、これを以って一巻の終わり……」と、美文を並べて弁じたという。西洋の映画は何とも意味が分からない所に価値があり、観客の興味を惹いたのだとゆう(『浅草・吉原・隅田川』田村栄太郎著 昭和39年 雄山閣発行を参照)。

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【写真2】平成15年5月18日現在の六区ブロードウェイ。大勝館の前から南を望む。三社祭の時で賑っている。

 【写真1】は華やかだった頃の六区興行街である。一号地から二号地を望んでいる。右手「相馬大作」の幟の立つ劇場が大勝館。左端の「琵琶歌」の垂れ幕の懸かる劇場がオペラ館(旧日本館の場所)。その右のドーム屋根を乗せた「佐倉宗五郎」の看板のある劇場は千代田館である。「琵琶歌」「相馬大作」は大正8年6月、「佐倉宗五郎」は大正8年7月30日の初演であることから、大正8年7月末か8月の撮影と判明した(細馬宏道氏の調査による)。当時はエアコンもなく熱気ムンムンだったことだろう。

 【写真2】は現在の同じ場所。左の大きな建物は浅草電気館ビル。一階と地下は店舗で、二階から上は賃貸マンションになっている。右の大勝館は昭和46年10月に休業したが、平成13年12月31日に復活した。幟旗が往時を偲ばせる。


(写真・文 石黒敬章)

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