第3回 国立博物館にある黒門

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【写真1】国立博物館の敷地内にある現在の黒門。

 上野公園にある国立博物館正門の前から東京芸術大学のほうに歩くと、右手に立派な大名屋敷の門がある【写真1】。東京大学に遺されている赤門と対比して黒門と称されている。

 この黒門、江戸期には旧因州(現鳥取県の一部)鳥取藩32万石池田家上屋敷の表門だった。大名小路と呼ばれ大名屋敷が並んでいた現在の丸の内にあった。明治5年に有楽町1丁目という町名になり、現在は丸の内3丁目である。東京国際フォーラムの西側、新東京ビルがある所である。


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【写真2】陸軍練兵場より陸軍省を望む。旧細川家上屋敷が陸軍省になっている。右が黒門。

 池田家上屋敷は明治2年7月8日に兵部省の用地となる。兵部省は明治5年2月に陸軍省と海軍省に分けられるが、この地は陸軍省になった。敷地内には監軍本部・陸軍教導団・陸軍裁判所なども置かれた。【写真2】は陸軍省だった時に、陸軍練兵場(東京国際フォーラムの場所)から写したものである。右手に黒門が見える。江戸城を背にして東側に表門が作られていたことが分かる。


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【写真3】高輪御所に移築された時の黒門。昭和初年。

 明治23年、丸の内一帯は三菱社に払い下げになり、明治24年に黒門は芝高輪台町(現高輪1丁目)の高輪御所に移築される。かつて肥後熊本藩54万石細川家下屋敷だった所で、赤穂浪士大石蔵之助以下16名が預けられ切腹を命じられた場所である。現在は高松宮邸である。【写真3】は昭和6年頃、高輪御所の玄関だった頃の黒門である。雪が残り冬の日である。

 黒門は昭和26年重要文化財に指定され、昭和29年3月、再度分解され上野の国立博物館の敷地内に移築されたのである。現門前の説明板には「屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷の表門としても最も格式が高い」と書かれている。

 明治5年の大火に耐え、関東大震災に耐え、太平洋戦争の空襲にも耐え、2度の移築を経験した黒門は、正にクロー(苦労)門でもあった。江戸期には数多くあった大名屋敷の表門も、いまや東京では赤門と黒門だけになってしまった。


(写真・文 石黒敬章)

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