第2回 上野公園忍ヶ丘
- 【写真1】明治20年代後半と思われる忍ヶ丘の花見。
上野公園山下(黒門口)から桜通り(旧黒門通り)を北に辿ると、少し右にカーブして国立博物館に突き当たる。【写真1】は、その右にカーブした辺りの忍ヶ丘の風景を写した写真絵葉書である。人力車を連ねての上野公園の花見である。1906年(明治39年)11月29日のスタンプが押されているが、撮影はもっと古い。横浜写真(横浜で土産用に売られた写真)を複製したものである。長崎大学所蔵の横浜写真に、全く同じものがあり、撮影は明治20年代と思われる。左に休憩所に垂れ幕が取り付けられ、「韻松亭」と屋号が書かれている。長崎大学の写真は六切大と大きいので読めるのである。
その韻松亭という茶店の上に見える屋根は寛永寺に属していた「時の鐘」。松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」のモデルとなった鐘である。かつて江戸市中には時の鐘が9箇所あり、一刻(2時間)毎に鐘を撞いた。時計を持たない庶民たちは鐘の音で時を知った。
写真の右手には大仏が写っている。寛永8年(1631)年、堀丹後守直寄がここに土の大仏を造ったのが始まり。後に淨雲和尚が青銅仏に改鋳。元禄11年(1698)に殿舎が建立されるが、天保12年(1841)に焼失。天保14年(1843)に2代目の大仏と殿舎が再建。その殿舎も明治6年(1873)に取り払われたという。それでこの写真の大仏は露仏になっている。
この大仏は、大正12年(1923)年の大震災で首が落ちてしまう。御体は第2次大戦の際、軍に供出されて何と武器に変わったとのこと。
大仏と時の鐘・韻松亭の間には稲荷坂と呼ばれる小道ある。これを辿ると京橋采女町の築地精養軒支店として明治5年に開店した上野精養軒がある(現在と同じ場所)。
- 【写真2】現在の花見。「活かそう資源」と書いた幕の後ろが大仏山。その背後の緑は東照宮。
【写真2】は現在の同じ場所。桜花で見にくいが、左端の五条天神社鳥居の右には韻松亭があり、現在も料亭として盛業中である。その後ろには時の鐘が遺こり、いまでも正午と午前午後の6時に撞かれている。
右手の大仏山はどうなったかというと、50周忌となる昭和47年(1972)、大仏のあった場所に仏塔パゴダが建てられた。お顔は寛永寺に保管されていたが、同じ時レリーフとしてパゴダの南側に祀られ現在に至る。私が訪れた時も、お顔だけになった大仏様の顔色は優れなかった(青銅だから当たり前か)。
(写真・文 石黒敬章)
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