第1回 浅草寺観音堂

 浅草寺は、推古天皇36年(628年)に、漁師の檜前濱成(ひのくまのはまなり)・武成(たけなり)という兄弟が、宮戸川(みやどがわ隅田川下流の旧称)で引き上げた一寸八分(5.5センチ)の小さな観音様を本尊とする。この観音様が寒村であった浅草を大発展させた。「台東区今昔物語」はまず浅草寺の本堂の写真から始めよう。

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【写真1】内田九一撮影の観音堂。明治五年頃仁王門楼上から撮影。

 【写真1】は数多く撮られた観音堂(本堂)の写真で最古に属するものである。明治5年頃と思われる。撮影したのは内田九一である。明治元年に横浜橋馬車道に写真館を開き、明治2年に浅草瓦町(現柳橋2丁目)にその支店を開いている。明治天皇を謹写した当時最も有名な写真師である。俯瞰して写しているので、仁王門(現宝蔵門)の楼上から写したことになる。『図説浅草寺―今むかし―』(1996年金龍山浅草寺編集・発行)によれば「江戸時代あたりからであろうか。正月と七月十五、十六、春秋彼岸の中日、さらに二月十五日の仏涅槃の日と四月八日の釈尊生誕の日といった年間六日間に限り、一般信徒が仁王門の楼上に登ることを許した。」とある。この写真は木に葉がなく、冬である。正月や仏涅槃の日にしては参詣の人もなく、不思議だった。

 建築史に詳しい川村勝則氏に送っていただいた資料でこの謎が解けた。明治5年になると、仁王門の上に客を上げてお茶を飲ませていたらしい。「浅草寺の山門を借りる契約をし、客をあげて、お茶を出し、望遠鏡を貸し、料金を取る商売をはじめた者あり(日要)。」(『夜明け後』星新一著平成8年新潮社発行の「明治5年」の項)。

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【写真2】観音堂は昭和20年の空襲で焼失。現在の観音堂は昭和33年10月に再建されたもの。いま楼上には登れないので宝蔵門の下から撮影。

 この者とは、淡島寒月の父で奇人と言われた淡島椿岳(ちんがく)だったらしい。椿岳は浅草寺の淡島堂の堂守になる前には仁王門の二階に住んでいたという。明治5年にピアノを担ぎ上げて弾いたりしている。寒月は『新小説』(明治45年春陽堂発行)の随筆「寺内の奇人談」で、椿岳は「画家の鏑木雪庵(せつあん)さんに頼んで十六羅漢の絵をかいて貰ってそれを陳列して参詣の人々に仁王門に上らせてお茶を飲ませたことがありました。」と書いている。

 寺の規則が甘くなった明治5年頃の冬、内田九一は楼上に登り撮影したのだろう。この時、熱いお茶を一杯飲んだかもしれない。


(写真・文 石黒敬章)

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